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よくあるシーン-考察4

【考察:おわりに】
 Aさんの問題、Bさんの問題、とわけて考えてきました。
 繰り返しますが「はじめに」でも言ったとおり、問題はつきつめれば
 「相手がどういう立場なのかを考えていない
 ということなんじゃないか?
 ――と、わたしはみなさんに問いかけたいです。

 これは、聴覚障害があってもなくても、どんな人でも、本当はそれを考えることからはじまるはずなんです。聞こえる人どうしでも、日本語を使っていても、「会話が成立していない」ことはあるんじゃないでしょうか。
 (残念ながら、「医者と患者の会話が微妙にズレている」というシーンもよくあることです。専門用語で説明するお医者さん、うなずいているけれどもわかっていない感じの患者さん、こんな風景をよく見かけます)。
 とくに、「コミュニケーション障害」のひとつである「聴覚障害」では、「どうやったらコミュニケーションできるか」を考えることが大事だし、聴覚障害のある人自身もそれを考えていかなければいけません。

 ところで、最近は学校教育のなかで「聴覚障害」についての話もでてきているのでしょうか。西瓜さんから下のようなコメントをいただきました。
西瓜さんからのコメント:
> 中には理解してくれている人がいます。
> 初めて会ったにも関わらず、
> 声の大きさとかゆっくり喋ってくれるとか口の大きさとか紙に書いてくれるなど、
> 耳が聴こえない人との関わり方を知っている人がいます。
> 手話ができる人もいました!(残念なことに私は手話の知識が全くありません)
> 彼らはそう親にしつけられていたり、
> 学校の道徳の授業や先生によって学んでいたのです。
(中略)
> みんなは学生時代に必ずそのような授業で学んでいます。
> だから、赤の信号を渡ってはいけないという風に
> 常識な事だと理解している人が多いです。
 すごい!わたしの小学校・中学校時代はそのようなことはなかったな、と記憶しています。
 これはステキなことで、自然に「どうしたらいいかを考えて、実行できている」人がいることをうれしく思いました。
 ひとつだけ注意したいのは、「常識」だと思うのは危ないよ、ということです。
 一律に、「○○ならこうすればいい」という思い込みが間違いのもとになっていることが、けっこうあるんです。
 (Bさんも、「耳が聞こえないなら声を大きくすればいい」と思っていますよね。そして、それは違うと感じている人がいます)。
 ある程度の教育とそれに基づいた理解は必要で、それによって適切な対応が選択できる、というのはあるはずですが、「常識だから」と思い込まないでください。

 また、じつはコメントのなかに「それは誤解ですよ」という部分がありました。
お名前のない方からのコメント:
> 殆(ほとん)どの聴覚障害者は口を読み取って会話をするので、
> 口が読み取れるような口の形にしてもらうことが大事なのだと思います。

熊さんからのコメント:
> 聴覚障害者は口読むからやっぱり口の大きさが大事かな…
> 声の大きさは小さくなければ問題はないと思います。
 子供のころからの難聴がある人にとって、「読唇(くちびるの動きを読む)」はコミュニケーションのための手段です。
 ずっと難聴がある状態できた人自身が、よく誤解するのがここ。
 すべての聴覚障害者が唇を読めるわけではありません!
 年をとってから聞こえなくなったとしましょう。
 その年までふつうに聞いていたのに、いきなり唇が読めるようにはならないんですよ。いわゆる、中途失聴の人たちは、唇の動きを読めないことも多いです。

 このように、聴覚障害を持っている人自身でも誤解していることがあるのではないでしょうか?
 ほかにもあります。生まれつき聞こえが悪く、手話を「ことば」として選んできた人たち――「ろう」の人たちは、筆談の苦手な人も多くいるようです。
 これは、わたしも大学に入ってから学んだことでした。

 「聞こえなければ○○すればいい」という思い込みを捨てて、「あなたとコミュニケーションしたいのだけど、どうすればいいんだろう?」と考えるところからはじめてみませんか。
 「どうやったら伝わるか」
 「相手にとってわかりやすいのはどういう伝え方か」
 そこが出発点だ、と思います。

 それをふまえて、「聴覚障害ってなんだ?」ということについて、これから一緒に考えていきましょう。
 ご質問のあった「老人性難聴は医学的にどういうことか?」についても、書いていきます。

 長くなってしまいました。「よくあるシーン」に関する考察は、ここで一応の終わりにしましょう。でも、ここからが本当のスタートです。
 最後になってしまいましたが、考察のなかにコメントを引用させていただきました。コメントの引用がいやだという方がいらっしゃいましたら、申し出てください。

考察3:前項|もくじ
文責:Kumiko

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no title

「よくあるシーン」私もうなずきながら読みました。感音性難聴は擬似体験できませんから、一度や二度の説明ではなかなかこちらが理解できるように話してもらえません。また、人工内耳装用者は「10人十色」どころか「100人100様」(このような言葉はありませんが)ですから、健聴者に理解してもらうのは大変なことだと思います。聴覚障害者=手話と思っている人が大半であり、私の様な中途失聴者は手話も読話も全くできない者は初対面の人には苦労します。補聴器も人工内耳も使いこなすことが大事だとよく言われますが、私はまだ人工内耳を装用して3年3ヶ月で十分使いこなせていません。話しておられることは分かるのですが、頭の中での理解が不十分なのか、以前のようにメモを
取ることがなかなかできません。話の中の重要な部分とそうでない部分の取捨選択がスムーズにできません。これは人工内耳をまだ十分使いこなせていないのか、それとも、年齢のせいなのか、両方に起因しているのでしょうか。

富岡さんへ

「感音性難聴」は疑似体験できませんが、似たようなものとして「言葉の全くわからない外国に、ひとりで放り込まれたとき」があるかもしれません。
そういうときって、ふつうの人でも「喋っているのはわかるんだけど、なにを言っているのかチンプンカンプン」になってしまいますから。
なにかのヒントになるかもしれないです。
そうなんですよね、本当に誤解が多い。
ホントは、「聞こえている」人の聞こえかただって、千差万別(さらに10倍、100倍、ですね(笑))のはずなのですが。

ご質問のことですが、わたしも「富岡さんの聞こえ」については体験できないし、人工内耳のシステムについて完全に理解しているわけではないから、推測になってしまいます。
人間の耳は「重要な情報とそうでない情報を取捨選択している」というのは、中途失聴である富岡さんにはなじみのある感覚だと思います。
人工内耳を入れてみたけれど、そこがうまくいかない、というお話ですね?
年のせいなのかどうかはちょっとわからないのですけれども、もしかしたら「聞き取ること」にアタマが集中しすぎているのかもしれません。
聞こえていたころは、聞き取ることに集中しなくても聞きたいことが聞こえていたと思われます。
でも、聴力が落ちて人工内耳を入れた。そうすると、人工内耳から入ってくる音やお話を聞き取ることに集中してしまう。
あくまでも推測なのですが、だから「聞くことに集中しすぎて、取捨選択をしている余裕がない」という可能性はある、と思いました。
それは使いこなせていない、という問題でもないように思います。
人間の内耳にある「音を聞くための細胞(有毛細胞)」の数は1万個以上です。それに比べて、人工内耳ではせいぜい20本程度の電極を使用しています。おそらく、性能的な問題もあるのではないでしょうか?

難しいですね、これは……。
聞きながらメモを取るということが難しいのであれば、あるいはいっそ「聞くこと」に集中し、聞き終わってから重要かどうかを考える、というやり方もできます。

わたし自身は物心ついたときから難聴だったため、「重要な情報とそうでない情報を取捨選択している」という感覚そのものが、人工内耳を入れてからわかってきたんです。いま、入れてから4年と少し経っていますが、それはわたしもなかなか難しいことだと感じています。雑音の中にいると、聞こえがものすごく落ちますし。
あんまり参考にならなかったかもしれません。
違うと感じたことなどがあれば、指摘してください。
こんにちは
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